オーストラリアに古くから生息する有胎盤類の中に、ディンゴと呼ばれる野犬がいます。他の大陸には生息していませんが、オーストラリア大陸の純粋な固有種ではありません。
一説によると、3〜5万年前にアジアから人類=アボリジニが渡ってきた際に連れてきたとされ、このディンゴが元々大陸内で繁栄していた有袋類の一部と競合し、その結果、敗れたフクロオオカミ(タスマニアタイガー)が種の絶滅に追いやられたと言われています(*4)。
このように、遥か何万年もの昔から、人類が持ち込んだ外来種によって、その土地の固有種が危機にさらされてきたとも言えるでしょう。
しかし、そのディンゴも現在では、純血種の存続が危ぶまれているため、保護活動が活発化している現状があります。
(*4)=フクロオオカミは、大陸と分かれた島であったタスマニアには、ディンゴの侵入がなかったことにより、最終的にこの島にのみ生存していたため、タスマニアタイガーと呼ばれる。1936年、最後の1頭が動物園で死亡し、絶滅したとされている。また、タスマニア島におけるフクロオオカミの絶滅は、西洋人入植後の狩りによるものである。
地球の絶妙なバランスと自然保護
人類は、いつの時代も環境の変化に関与してきました。絶滅に追い込んだり、保護してみたり…。
ですが、環境を変えてしまうのは人類だけではありません。地球上の生物すべてが、自然環境に関わり、維持されているのです。何かが多くても、何かが少なくても、その絶妙なバランスは崩れてしまいます。どれか特定の種が増えすぎたり、力を持ちすぎてもダメなのです。
では、自然保護とは本来どうあるべきなのでしょうか?
オーストラリアの哲学者ジョン・パスモアは、著書『Man's Responsibility for Nature(自然に対する人間の責任)』で、以下のように述べています。
保全(conservation)の思想は、自然環境を、人間のための「道具」であるとみなす。これに対して、保存(preservation)の思想は、自然環境に「それ自体の価値」が備わっているとみなす。
何のために、誰のために自然を保護するのか?
近年の自然保護思想は、人間中心の立場に立った“保全”的な考え方が大勢を占め、政治や経済的な対策・戦略=道具としての影響が大きくなっていると言っても過言ではありません。これでは、一方向からの力がかかり過ぎてしまう危険性があります。もう少し自然生態系の多様さや複雑さに価値を見出し、保護・保存するといった、自然保護の原点に立ち返る必要がありそうです。
そして、その上で何ができるのか?どうするべきなのか?を考える。
すべての生物にとって快適な環境は、地球の絶妙なバランスの上に成り立っている、ということを忘れてはならないのではないでしょうか。