取り残された戦士 ~知られざるブルーム空襲と先住民が守る零戦パイロットの墓

真珠の町ブルーム
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2017年3月3日、西オーストラリア州北部のブルームは旧日本軍による空襲から75年目を迎える。

3月2日から3日にかけて、ブルームでは「Remembering the Broome Air Raid after 75 years」として、ささやかな催し物と式典が開かれる予定だ。

歴史の奥深くに埋もれたままの『旧日本軍によるオーストラリア空襲』。

1942年から1943年にかけて行われた一連の攻撃は、沖合の島などを含めると少なくとも97回にも及ぶ。

 

隠されたブルーム空襲

1942年、3月3日。ダーウィンの西約1,100kmの小さな海辺の町ブルームが、旧日本軍による空襲を受け、連合軍側88名、日本側1名が死亡した。2月19日のダーウィン空襲から12日後のことである。

当時、ブルームは真珠で栄えた小さな町であったが、戦争拡大でオランダ領東インド諸島からオーストラリア本土への避難ルートとなっており、民間人と共に連合軍の軍関係者も輸送されてきていたため、攻撃対象になったとされる。

ブルームへの空襲はダーウィンに次いで被害が大きく、連合軍側の22機が撃墜され、ローバック湾などに停泊していた輸送飛行艇15機が沈められた。この攻撃で88名が死亡、負傷者多数。日本側も2機が撃墜され、1名が死亡したと記録されている。

連合軍側の犠牲者のほとんどはオランダ民間人の女性や子供達で、名前が判る者は少なく、性別や年齢の判別は困難で、正確な数はわかっていない。わかっているのは、名前のわからない犠牲者の中には9名の子供が含まれており、最年少は1歳程度の乳児であったこと……

※実は2月20日と21日にも、西オーストラリア北部へ爆撃が行われたが、幸い人的被害は怪我人のみだった。

 
こうした事実は、日本ではほとんど知られておらず、そもそも日本とオーストラリアが戦ったことを知る人すら少ないのは本当に残念なことだけれど、オーストラリア国内においても、ブルーム空襲については、先のダーウィンよりもさらに知られていないのが現状だ。

その理由は、ブルーム歴史協会のディオン・マリニス氏の言葉に痛いほど現れている。

「これは、私たちにとってのパールハーバー(真珠湾攻撃)です。しかし、政府はこの事実を口外することでパニックになることを恐れたのです。」
Pearl Harbor anniversary a reminder of Broome WWII attacks

つまり、民衆がパニックになることを恐れた政府の隠蔽か――
どこの国でも、こうしたことがあからさまに行われてきたことを実感せざるをえない。

 

ブルーム上空で撃墜された日本人パイロットの墓

昨年5月、私はオーストラリア政府観光局主催のツーリズム・トレードショーに参加させてもらった際、ブルーム近郊でツアー会社を営むアボリジニのおじさんから興味深い話を聞いたのだった。

それは、ブルームに眠る日本兵の墓――

第二次世界大戦中、旧日本軍がブルームを攻撃した際、零戦が撃墜され、パイロットは(落下傘で?)脱出した。後日、地元のアボリジニの人たちが、マングローブの木に落下傘が引っ掛かっているのを発見。傍に倒れていた人物は既に息絶えていたため、アボリジニの人たちが近くに埋葬し、それ以降、日本人の墓として70年以上見守り続けている――

というのだ。アボリジニのおじさんは、さらに力強くまくしたてる。

「これは、日本人が絶対に知らなきゃならないことだ。墓の場所はもろく、崩れかけている。ようやく先日、日本政府が調査に来たが、もっときちんと確認して、できれば日本に帰してあげて欲しい。」

最初聞いた時は、ブルームにある「日本人墓地」のことかと思ったのだが、よく聞くとそうではないらしい。昔から世界有数の真珠貝産地だったブルームには、日本からも明治の頃より真珠ダイバーとして多くの移民が渡ったため、日本人墓地があるので、そこのことかと思ったが違った。

とにかく、ブルームに日本の戦士が眠っていることを日本人が知らなければならない!と、何度も聞かされたことが頭を離れず、自宅に戻ってから調べてみると、確かにおじさんが言った通り、その年の(2016年)3月に、ブルームに日本の厚生労働省が調査に入ったことがわかった。(参考

豪ABCの記事には、ブルーム攻撃で撃墜された零戦パイロットの工藤修中尉(最終階級)の可能性があると書かれていた。ただ、誰も工藤氏の零戦が墜落する瞬間をきちんと見た者はいないのだそうだ。

それでも、発見した地元のアボリジニの人たちは、「日本人パイロットの墓」として、見守り続けてきた。

アボリジニの人々も地元の歴史家も、崩れそうなその墓について、日本政府がきちんと予算をとって調査し、埋葬されているのが本当に工藤氏なのかどうか、DNA鑑定などでしっかり確認して欲しいと口を揃える。

 
神秘的な自然現象「月への階段」で知られ、今となっては国内屈指の人気リゾート地となったブルームの知られざる過去。

日本人にとっては、明治の頃から移民した方々が多い縁の深い地でありながら、そうした事実もあまり知られていないのは、なんとも寂しく、悲しい気持ちになるのだった・・・

昨年、厚生労働省が調査に入った時期とほぼ時を同じくして、「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律案」が可決し、4月に施行。その後、5月には「戦没者の遺骨収集の推進に関する基本的な計画」が閣議決定したそうだから、ブルームのこの件も今後の進展に期待したい。

 

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Miki Hirano平野 美紀 
自然に魅せられ、6年半暮らしたロンドンからオーストラリアへ移住。トラベル・ジャーナリストとして各種メディアへの執筆、ラジオ/テレビ出演などで情報発信しながら、メディア・コーディネーターや旅行情報サイトの運営も。目下の関心事は野生動物とエコ。シドニー在住20年以上。詳細なプロフィールはこちら。
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もうひとつのパールハーバー ~知られざるダーウィン空襲/日本に攻撃されたオーストラリア

ダーウィン港(ポート・ダーウィン)
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1942年2月19日。ハワイ真珠湾攻撃から約2か月後、オーストラリア北部の港町ダーウィンは、旧日本軍による大規模な空襲を受けた。

このことを知る日本人は、どれくらいいるのだろうか?

この日以降、ダーウィンだけで64回、それ以外にもブルームやキャサリン、タウンズビル、モスマンなどのオーストラリア北部の町へ、日本軍による空襲が行われたが、この事実はほとんど知られていない。

2017年2月19日、ダーウィンは空襲から75年目を迎える。

75年の節目を迎えるに当たり、ノーザンテリトリー準州政府は昨年より「The Territory Remembers 75 Years」という一大キャンペーンを展開。また今年は、ダーウィン沖で連合軍(主に豪軍)によって沈められ、乗組員80名全員が死亡したとされる日本軍の潜水艦「伊124号」の追悼慰霊のための銘板を設置。メインの式典に先駆け、17日に除幕式が行われた(参照1, 参照2)。

戦争に参加した元兵士ら、当事者が高齢化し、その大半が他界されている現状では、真の歴史を語り継いでいくのは、ますます困難となるだろう。

ダーウィン空襲をはじめとする日本軍によるオーストラリア攻撃については、日本でほとんど知られていないばかりか、当地オーストラリアにおいても学校教育で省かれてきた現実がある。

歴史を風化させないためにも、「もうひとつのパールハーバー」と言われる『ダーウィン空襲』について、ここでもう一度ざっくりと確認しておきたいと思う。

 

なぜ、ダーウィンが攻撃対象となったのか?

シンガポール陥落後、旧日本軍が行った一連の空襲の目的は、退却した連合国軍が拠点としたオーストラリア北部の軍事基地機能を破壊し、補給路を断ち、反撃に出ないようにするため…とされている。

その最大拠点がダーウィンであり、最初の攻撃対象となった。

※ちなみに、シンガポール陥落は2月15日。

 

以下で、あの日のダーウィンの様子をオーストラリア側に残る記録を基に振り返ってみたい。

 

1942年2月19日、ダーウィンで何が起きたのか?

じとじとしたモンスーン気候特有の湿った空気が、体全体にまとわりつく雨季のオーストラリア北部。ダーウィン沖のバサースト島に赴任していたマクグラー神父が、じわりと滲み出る汗を大判のタオルで拭きながら、ふと時計を見ると、午前9時30分をまわったところだった。

9時35分。

海上監視役も担っていたマクグラー神父がいつもように海を見渡していると、多数の航空機が南に向かって飛行していくのを目撃。すぐさま、足踏み式ラジオでダーウィンのラジオ局へ報告した。そして、第一報を受け取ったラジオ局を経由し、わずか2分後の9時37分には、豪空軍部へこの知らせが届いていた。

しかし、この時点で敵機襲来の警報が鳴らされることはなかった――

9時58分。

最初の爆撃機がダーウィン上空に現れ、港に停泊していた船舶めがけて一斉攻撃を開始。この時、チモール海洋上に停泊した4隻の空母からダーウィン攻撃のために発進した爆撃機は計188機にも及び、(当時)人口6千人に満たない小さな軍港の町ダーウィンの上空は、おびただしい日本軍機に覆い尽くされたという。

ようやく事態の深刻さに気づいた豪軍部により、市街地への空襲警報が鳴らされたのは、マクグラー神父が報告してから30分近くが経過した午前10時頃。既に攻撃が開始された後であった。

この致命的ともいえる遅れは、報告を受けた豪空軍の係員が、「(マクグラー神父から報告された)南進する多数の航空機」を悪天候によって西チモールからジャワ島への飛行を中止し、ダーウィンへ帰還する10機の米軍機(USAAF P-40)であろうと、誤った判断をしたためとも言われている。

こうした伝達の遅れも伴い、市民は突然の空襲に曝されることとなった。この時、市街地にあった郵便局や電信局、病院等も攻撃対象となり、民間人が死亡している。

港と軍事施設へ大きなダメージを与え、一連の攻撃を終えた日本軍機団の最初の一波が去ったのは、10時10分頃だったとされる。

それから約2時間後、同日11時58分。

再び、空襲警報が市街地に鳴り響く。

二手に分かれた計54機の日本軍爆撃機が、再度ダーウィン上空に現れ、軍事基地を中心とした市街地へ一斉に爆弾を投下。

一連の攻撃を終え、日本軍機が立ち去ったのは12時10分頃であったとされる。

この日、2回に及ぶ日本軍の攻撃により民間人を含む243人が死亡、約400人が負傷した。(注意:現時点での記録に基づいた数字であり、引き続き検証が行われている)

この攻撃は、先の真珠湾攻撃を上回る弾薬量であったとされ、停泊していた8隻が沈められた港はもとより、軍関連及び主な公的施設が破壊され、ダーウィンの都市機能は失われた。これ対し、豪軍はわずかに日本軍機4機を撃破できただけであった。

ダーウィンは、この最初の攻撃から1943年11月12日までに、64回に及ぶ日本軍の空襲を受けることとなる。

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敵国の大将を招いたアンザック・デー

タイの泰緬鉄道建設で最も過酷だったと言われるヘル・ファイヤー・パス。ここで、多くのオーストラリア兵が亡くなり、先日もアンザック・デーの式典が行われた。
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※このエントリーは、私(平野美紀)が、2005年4月27日に執筆したものです。ODNの公式サイト内で連載していたブログ記事の1つとして公開され(のちにソフトバンクテレコムに買収され終了)、今年2012年のアンザックデーに寄せて再アップしました。

 今年はアンザック・デーのことについて触れるつもりはなかったのだけれど、今年新たに数名の方から昨年の記事にトラックバックをいただいたので、ちょっとだけ今年の様子はどうだったのか?ということなど、つらつらと書いておこうと思う。

敵国の大将を招いて行われた式典

 今年のアンザック・デーは、ご存知の通り、現在も尚、軍隊を駐留させているイラクへのさらなる増派が行われ、かの地でもアンザック・デーの式典が開催された。このイラクへの派兵は、日本の報道機関でも伝えられてると思うが、日本の陸上自衛隊の安全確保と支援が主な目的。

 そのためもあってか、アンザック・デーの式典には、陸上自衛隊の責任者(もちろん日本人)も出席し、オースト ラリア国内で話題になった。それは、言わずもがな、日本はこの国=オーストラリアにとって、かつての戦争における敵国にも関わらず、今となっては『戦争記念日』的な位置づけになりつつあるアンザック・デーに、敵国の大将を招いたような格好だからだ。これには私も、ちょっと、いや、かなり衝撃を受けた。

 でも、これに対し「なんで敵国の人間を出席させるのか!」と言ったような、怒りの世論は起きていない(…というか聞かない)。イラクへの派兵を純粋に反対する声は少なからずあるけれど、「なぜ、“元敵国であった日本”を守るためにイラクへ派兵しなければならないのか!」と言ったような怒りの声もとくにない。

 ちょうど時を同じくして中国各地で起きた反日デモ(…というか、あれはもうテロに近い)に比べ、まったく対照的だ。オーストラリアも中国と同じく先の戦争では、日本が敵国。なのに、この両国の対応(反応)はあまりにも違いすぎる。

オーストラリアと日本は、昔から友好国

 この件で、ハワード首相は自ら「日本とわが国は、昔から友好国であり、長年助け合ってきた。日本の自衛隊を護衛するために、派兵を決定した」と国民に理解を求める声明を出している。

 #この「昔から友好国」という部分には、第一次世界大戦におけるアンザック隊を護衛した日本海軍への恩返しという意味も含まれるんじゃないかと思う。以下にオーストラリア大使館のサイトで公開している資料『日豪国防協力の今昔』より、該当部分を転載。

実はこのオーストラリアとニュージーランドの軍隊輸送を戦場に護衛する役割を日本の軍艦が果たしていた。-(中略)-日本は、志願して集まったオーストラリア兵とこれに加わったニュージーランド兵、合わせて3万人を乗せた最初の輸送船団38隻をドイツの攻撃から守り、インド洋を護送する要請を受けたのである。

 このあたりのことを知らない日本人が多いために、「アンザック・デーは日本人にとって嫌な日」などと、誤解を招いているのかもしれないけれど、アンザック・ デーの本来の意味=アンザック隊からすれば、恨まれるどころか、反対に感謝される立場でもあり、オーストラリアにとって日本は、(戦争においても)決して悪い イメージばかりではない。

前向きに、協力し合える関係を築くのが大切

 実はこの前行った東南アジアの国で、オーストラリアが建てたという戦争記念館(もちろん第二次世界大戦の。以前、タイのカンチャナブリーにあるのにも行った) に、オージー達と共に行かねばならないはめになったのだけれど、その中のひとりである60代のおじさんが、日本軍の行った数々の行為についての展示を見終え、落胆していた私(だって、返す言葉もないというか、何も言えませんよ…)をわざわざ呼び止め、こう言って心を和ませてくれた。

 「歴史を知ることは重要だけれども、昔のことを根掘り葉掘り並べて、悪印象を持つようなものはよくないし、意 味が無い。こんなこと(日本軍が行った残虐とも言える行為)を知らしめたところで、何かがよくなることはないし、何も変わってないじゃないか。そうだろ、今 だって世界各地で戦争しているのだから。もっと前向きに、協力し合える関係を築くのが大切なんだよ。」

 …おじさんの温かい心遣いに、ちょっと涙がでた。

 で、結論として何が言いたいのかというと、日本は反日感情むき出しの中国のことは置いといて、もっとオーストラリアとの関係を強化したほうがいいんじゃないかということ。中国は所詮、オーストラリアから資源を売ってもらわないと成り立たないわけだし、資源も農産物も豊富(前にも書いたけど、自給率は300%以上!)であるオーストラリアは、結構お役に立つと思いますけど??…と思いながらウェブ・サーフィンしてたら、極東ブログさんも似たようなこと書かれていましたね…

※先の戦争におけるオーストラリアの心情は、概ね「いつまでも昔のことにこだわっているより、前向きになったほうがお互いのためである」という意識が強いよう。もちろん、よく思っていない人が全くいないわけじゃないとは思いますけど。

【関連コラム】 アンザック・デーの憂鬱とマイト・シップ

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アンザック・デーの憂鬱とマイト・シップ

アンザック記念碑があるシドニー中心部のマーティン・プレイス
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※このエントリーは、私(平野美紀)が、2004年4月26日に執筆したものです。ODNの公式サイト内で連載していたブログ記事の1つで(のちにソフトバンクテレコムに買収され終了)、今年2012年のアンザックデーに寄せて再アップしました。

 昨日の日曜日(4月25日)は、アンザック・デーだった。なので、本日月曜日は振り替えとなり、一部の州を除いてお休み。(オーストラリアは州によって祝祭日が異なる)

アンデック・デーとは何か?

 第一次世界大戦時に、オーストラリアとニュージーランドで編成された「アンザック(Australian and New Zealand Army Corporationの略=ANZAC)」が、トルコ戦線突破のためにトルコのガリポリに上陸した1915年4月25日を記念した日。

 ちなみに、この作戦は大失敗に終わり、多くの戦死者を出した。

 このアンザック・デーには、オーストラリア国内各地と戦地となったガリポリで、亡くなった兵士達を追悼するための記念式典が行われる。

 しかし近年では、本来のアンザック隊及び第一次世界大戦関係者達(兵士や軍従事者、軍属医療関係者等)が高齢により少数になってきているということもあり、第一次世界大戦関係者だけでなく、その後の戦争も含め、参加した兵士や関係者達、遺族達全体を対象とした式典となってきている。だから今となっては、このアンザック・デーを一言で言ってしまえば、「戦争記念日」とも言える。

敵国は日本!

 第一次世界大戦以後の戦争には、もちろん第二次世界大戦も含まれる。オーストラリアにとっては、唯一の本土爆撃を受け、多数の戦死者を出した第二次世界大戦。

 しかも、その敵国は日本!

 おそらく今年あたりは、大多数がこの第二次世界大戦関係者になってきているとみられ、このアンザック・デーは年々、日本人にとって“居心地の悪い日”になってきている感じがしないでもない…。

 数年前から(いやそれ以前から?)在豪邦人の間では、「大使館から外出禁止令がでている」とか、「パレードにぶつかってしまったら唾を吐きかけられる」といった怪情報が流れたりするほどで、少しでもオーストラリアと日本との戦争のことを知っている日本人は、アンザック・デーが近づくにつれ、日々戦々恐々としている…と言っても過言ではないと思う。

 #もちろん、そんなこと全く知らないという人も多くなってきているようだし、唾を吐きかけられたり、罵倒されたりした人がいたという話は、今まで一度も聞いたことがない。ほとんどまったくのデマ情報なんだけど。

私達は日本のファシズムと戦争した

 そんなこともあって(?)アンザック・デーは、とくに用事がない限り外出はせず、いつも自宅で過ごすことが多い。でも、自宅で過ごしていても、テレビからは式典の様子や退役軍人へのインタビューなどの映像が次々と飛び込んでくる。

 やはり思っていた通り、今年は第一次世界大戦関係の生存者はあと6名となり、ほとんどが第二次世界大戦関係者と一部のベトナム戦争関係者になっているようで、第二次世界大戦で日本軍の捕虜=POW(Prisoner Of War)となった退役軍人の方がインタビューに答えていた。

 私が見始めたのは途中からだったので、どの隊に属していたか等の詳細は聞くことができなかったが、その退役軍人の方は、あの『死の鉄道(DEATH RAILWAY)』として知られる『泰緬鉄道』建設に従事した人であった…。

 実は元々、オーストラリアの元日本軍捕虜だった方々が、どのような見解をされているのか?日本に対してどのように思っているのか?、個人的にとても知りたかった。それは、イギリスの元POWの方々の中には、今でも日本を恨み、それこそ日本製品まで毛嫌いして一切使わないという人も少なからずいる…という事実をロンドンに住んでいた頃に知ったからだ。

 こうしたPOWの方々の心情を察してか、イギリスでは8月15日戦争記念日を名指しで『VJ Day(Victory over Japan Day:表記はoverの部分がinになるなど、いくつかある)』としているほどで、この事実はほとんどの日本人が知らないのではないかと思う。

 だから、同じように日本軍の捕虜となったオーストラリア人の方々がどのように思っているのか?これは、この国に住む日本人ならとくに、絶対に知っておかなきゃならないことだと思っている。

 くだんの退役軍人の方の話は、要約するとこんな感じであった。

 「たしかにあの頃は、大変でした。地獄だったとも言えます。正直なところ、ナガサキに原爆が投下され、(戦争が終わって)心の底から喜びました…、その後(被爆者のことや壊滅状態になった町など)のことを知らなければ。

 あの頃は、友人がどんどん増えた。日本人や韓国人の人達と一緒に風呂に入り、言葉はわからないけれども、日に日に友情が芽生えていった。それに引き換え、もうこの歳になると、年々友人達がこの世からいなくなってしまう…実に寂しいことです。

 私達は日本のファシズムと戦争したのです。

 戦争というのは人類にとって悲劇です。でもあの戦争で、私には日本人や韓国人などの友人(Mate)ができた。それはかけがえのない事実で、私の人生に置いて貴重な体験だったのです」

 インタビュアーから「イギリス人もいたわけですが、彼らからは過酷であったと様々な不平や憤りが表面化していますが、それについてあなた方はどう思いますか?また、最後にイラク戦争についてコメントをお願いします。」と質問され、さらにこう続けた。

 「彼ら(イギリス人捕虜)より、私達の方が適応能力があったということでしょう。私達は倒れてもまた起き上がれる力があった。でも、残念ながら彼らには無かった、そういう違いかも知れません。

 それに、日本軍からはジュネーブ協定に基づいて賃金をもらっていました(*)ので、それでドラッグ(大麻など?)を買ってましたねぇ(笑)。

 イラクのような遠いところのことに注力するのは、あまりいいことではないと思います。
国費も際限なくあるわけではないのだから、もっと近隣のことに力を注いだ方がいい。例えばアジアや南太平洋諸国のこととか、ですね。」

 自分達は日本のファシズムと戦争したと言い、たしかに過酷ではあったけれど、友人が増えたことが嬉しかったと、まるで楽しい思い出話をするかのように、にこやかに話す前向きな姿勢には、正直頭の下がる思いだった。

 オーストラリアでは確かに、先に書いたイギリスのPOWの方々(今でも日本製品を一切使わない等)のような人がいるという話は、今のところ聞いたことがない。ここオーストラリアでは、日本製品の性能の高さは誰しもが認めるところだし、スシをはじめとする日本食だって老若男女問わず人気だ。

 そういえば以前、キャンベラの戦争記念博物館を訪れたという日本人の方が、退役軍人の方から館内説明を受け、帰り際、こんな言葉を掛けられたという話も耳にしたことがある。

 「戦争は過去のもの。戦争というものが人間をも変えてしまう…すべては戦争の責任なのです。日本人を恨むことなどありません。私達の使命は、こうしてあの体験を人々に間違えなく伝えることです。是非大勢の日本の方々にも来ていただきたい。」

 間違えなく伝える…そう、上記の戦争博物館には、アンザック・デーのキッカケとなった地中海(ガリポリ)への軍隊輸送の際、護衛する役割を日本の軍艦が行ったことに対する謝辞も掲示している。

そのためか、近年在豪邦人の間で囁かれるデマ「アンザック・デーに、日本人だとわかったら痛い目にあう」どころか、退役軍人(おそらく第一次大戦参戦者)に敬礼されて、恐縮したという人もいるほどだ。

 たしかに、これはいくつかの事例に過ぎないのかもしれないし、中には過去の戦争において敵であった日本をよく思わない方々もいるのかもしれないが、 こうして見てくると概ね「過去のことをいつまでもとやかく言うのではなく、先を、そしていいところを見ていこう」という前向きなオージーの気概を感じる。

オーストラリアのマイト・シップ(友好関係)

 “オージー=オーストラリア人は、フレンドリー”

 よくそんな風に言われるけれど、実は口は悪いし、意外とぶっきらぼうで、単純にフレンドリーというわけでもない…と思う(苦笑)。それよりも、正直で前向き、そして寛大な心を持ち、何かを恨む前に自分のプラスになるように考えるから、誰とでも友達になれる。オーストラリアのMate ship/マイト・シップ精神は、こんなところから来ているのかも…と感じた2004年のアンザック・デーだった。

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 (*)=この話「捕虜に賃金を払っていた」というのは、私もタイのカンチャナブリー(泰緬鉄道の鉄橋などがある)郊外にオーストラリア政府が建てた記念館で目にした。(よく知られるJEATHではなく、ヘルファイア・パスのところにできた新しい記念館)

 #くだんのインタビューに答えていた退役軍人の方の話の中に、「イギリス人より、オーストラリア人の方が適応能力があった」というのがあったけれ ど、実際、捕虜の中には米(飯)など、日本式の食事を嫌い、拒否した人もいたよう。でも、確かにオージーなら何でも食べただろうと思う(この国の食文化の 発達の早さは、こんなところにもあるのかも?)し、蚊などの虫がほとんどいないイギリスで生まれ育った人と、そういう状況が当たり前だったオージーとで は、感覚の違いがあるのではないかと思う…。

 また、本当のことを言えば、この話題には触れないでおこうかとも思ったのだけど、日本人として知っておくべきことだと思うので、あえて書くことにしました。まただからと言って、いろいろ言われているような悲劇的な事実がなかったとか、そういうことに言及するものではなく、「こういう一面もあったし、 こんな風に思っている人もいる」ということを知っていただけたら、と思います。

【関連コラム】 敵国の大将を招いたアンザック・デー

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