先日、「ユーレカのパズルの1ピースが見つかった」というニュースが報じられた。
これは、ボロボロになった「Eureka Flag(ユーレカの旗)」の一部分が新たに見つかり、12月3日の「Eureka Day(ユーレカの日)」に合わせて、これまでに繋ぎ合わされた大部分の旗に加えられる、という話である。(参照)
何も知らなければ、ただ、「へぇ…」と思うだけのどうってことないニュースだけれども、オーストラリア人にとってこの旗は、この国の民主主義の“象徴”として、重要な意味を持っている。
ユーレカの日は、1854年に起こった「ユーレカ砦の反乱」の記念日であり、ユーレカの旗は、その時に掲げられた旗だ。オーストラリア初の大規模な民衆蜂起であり、歴史上唯一の流血事件とされる「ユーレカ砦の反乱」。
オーストラリアの歴史上では最大規模とはいえ、わずか1,000人ほどの金鉱夫が起こした反乱が、なぜ、これほどまでにオーストラリア国民に支持され、愛されているのか?
オーストラリアの民主主義とアイデンティティ確立の鍵
それは、「ユーレカ砦の反乱」が、オーストラリアにおける民主主義確立の第一歩であったと言われているからだ。英国統治下にあったオーストラリアの民主主義とオーストラリア人としてのアイデンティティの確立が、この戦いによって生まれたとされている。
オーストラリア政府の公式サイトでは、このEureka Stockade(ユーレカ砦)について以下のように記載している。
The Eureka rebellion, which is often referred to as the ‘Eureka Stockade’, is a key event in the development of Australian democracy and Australian identity, with some people arguing that Australian democracy was born at Eureka’ (Clive Evatt). (参照)
<訳>ユーレカの反乱、それは“ユーレカ砦”とも呼ばれ、オーストラリアの民主主義とオーストラリア人としてのアイデンティティの確立にとって鍵となる出来事であり、オーストラリアの民主主義はユーレカで生まれたと主張する人もいるほどだ。(Clive Evatt) *Clive Evatt 氏は、オーストラリアの法律家・政治家
ユーレカ砦の反乱とは?
「ユーレカ砦の反乱」とは、一体どんなものだったか、ざっくりと説明すると以下のような感じになる。
オーストラリアのビクトリア州バララット近郊を中心としたゴールドラッシュ最中の1800年代。英国統治下であった当時、金鉱では、政府が採掘許可証を発行するというシステムがとられていた。これにより、採掘者は、採掘税ともいえる1ヵ月30シリングの支払いと、許可証の常時携帯が義務付けられていた。
そして、役人から依頼された警察による「許可証狩り」が行われ、不当に罰金を科せられるなど、役人の権利だけが守られる不平等なシステムと腐敗した体質に、不満を抱く者が多かった。
そんな中、1854年10月7日、金鉱夫のひとりがユーレカホテルのそばで死んでいるのが発見される。ホテルのオーナーと彼に近い3人の容疑者が殺人容疑で起訴されるが、証拠不十分で冤罪となったことを不服とする金鉱夫仲間が抗議集会を開き、ユーレカホテルを焼き払ってしまう。
そして、この暴動を起こした者たちが逮捕されたことで、これまでの金鉱運営に携わる役人の横暴に耐えかねていた金鉱夫らの不満が爆発。仲間同士で一丸となり、「バララット改革連盟」を結成し、暴動の罪で起訴された3人の釈放を要求した。
しかし、ビクトリア政府総督はこれを拒否。11月28日、バララットへ軍隊を差し向ける。こうして、金鉱夫らと軍隊が衝突。
バララット改革連盟は、当時使われていた英国旗ではなく、自分たちの旗として、青地に白い南十字星をかたどった「ユーレカの旗」を掲げ、砦を築き、役所が発行した「許可証」を捨てて、正義と自由のために戦うことを誓ったのだ。この時のメンバーは約1,000人。
12月3日の朝、約150人の金鉱夫が立てこもる砦は、軍隊と警察から総攻撃を受ける。バララット改革連盟30人、政府側5人の死者を出した戦いは、わずか15~20分で鎮圧され、100人以上の金鉱夫が拘束、13人が反逆罪で起訴となる。
しかし、この民衆の反乱を重く見た政府は、王立調査委員会を設立し、金鉱運営に関わる諸問題の調査に乗り出す。
その結果、それまでの採掘許可制が廃止され、年1ポンドの大幅な許可証発行料の値下げと、許可証保持者への参政権付与によって、金鉱夫が金鉱運営に参加する道も開かれた。(この反乱については、こちらのサイトでも詳しく紹介されています)
ユーレカ砦の反乱は、自由主義改革のきっかけになったか?
この反乱は、以下のような二通りの解釈がある。
- 自由主義改革の動きは、当時の抑圧された統治下で、既に始まっていたと言え、ユーレカの反乱は、単なる暴動だった。
- 旧体質の保守主義的権力に対し、自由主義改革を唱える急進勢力の主張が勝利した戦いとみなし、圧政的な帝国主義からの独立を求める民主的な闘争であった。
後者の解釈が、ユーレカ砦の美談として語り継がれ、「ユーレカの旗」がオーストラリアにおける自由・共和主義運動の象徴として支持されるようになったといえる。
英国的な階級社会と圧制政治に終止符を打つべく、民衆が自ら立ち上がり、その手で権利を勝ち取った…という点に、オーストラリア人は、自らの(植民地の民としてではない)アイデンティティを見出しているのではないだろうか。
ブラッド・オン・ザ・サザンクロス(血にまみれた南十字星)
「ユーレカ砦の反乱」のストーリーは、その舞台となったバララットにある金鉱の歴史展示を兼ねた屋外のテーマパーク風ミュージアム「Sovereign Hill ソブリンヒル」で、「Blood on the Southern Cross ブラッド・オン・ザ・サザンクロス(血にまみれた南十字星)」という夜間の音と光のショーとして上演されている。
このショーには、たくさんの地元の家族連れも見物に訪れており、これが、子供の頃から「ユーレカ砦の反乱」を知るきっかけとなって、後世へと語り継がれていくことになるのだろう。
★Blood on the Southern Cross ブラッド・オン・ザ・サザンクロス
※このショーは、毎晩2回、彼是もう9年は上演されているほど人気が高い。それほど、オージーはこの物語が好きなのだ…たぶん。。(^_^;
注意)この記事では、Eurekaの日本語の記載をオーストラリア政府観光局の記載に合わせ、“ユーレカ”としています。その他のブログ記事などでは、“ユーリカ”、“ユリーカ”、“ユーレーカ”、“ユーリーカ”など、いくつもの記載が混在しているのが現状です。
自然に魅せられ、6年半暮らしたロンドンからオーストラリアへ移住。トラベル・ジャーナリストとして各種メディアへの執筆、ラジオ/テレビ出演などで情報発信しながら、メディア・コーディネーターや旅行情報サイトの運営も。目下の関心事は野生動物とエコ。シドニー在住20年以上。詳細なプロフィールはこちら。
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